武者小路実篤の散文の最近のブログ記事

  自分の考えと村の人の考え     武者小路実篤

 自分の考えは自分の考えだ。自分の思想は自分の思想だ。
自分の主義主張は自分の主義主張だ。村の人は皆同じ考えを
もっていると思えばまちがいだ、村の人は皆同じ思想、同じ信仰、
全く同じ主義を持つと思えばまちがいだ。新しき村の生活、協力
の生活の正しいと云うことでは同じ考えをもっていることは云う
迄もないことだが、その他に就ては皆別の考えをもっている。
そして各自、自分の考えを正しいと思い、それを主張する自由を
もっている。村では信仰も、思想も自由だ。孔子が「君子は和して
同ぜず、小人は同じて和せず。」と云うのは真理だ。和するのが
大事だ。同ずる必要はない。雷同は君子の恥じる所だ。君子
同士は調和するが自分の信ずることを信ずる。好んで異をたて
ない。しかし好んで同じない。自分の確信することを確信する。

(『雑二十六』「武者小路實篤全集」第4巻、小学館、1988年。ただし、現代仮名遣いに改めた)

  新しき村では     武者小路実篤

 新しき村ではすべての会員が自己を生かして、其処に美し
い調和を生み出すように、新しき村の土地でも、いろいろの
草木、動物が自己を生かして、其処に統一された美を発揮す
るものでありたい。
 もっと具体的に云うと新しき村では、人間はかくしなけれ
ば生きられないものだと云う呪いをとき、かくしても生きら
れるものだと云う喜びを味わいたいのだ。だから土地も、金
をとるとか、食うとかを唯一の目的とせず、それ等の目的が
露骨になりすぎず、それらがつつしみ深く全体の内にかくさ
れている必要がある。則ち新しき村では果樹も、野菜も、稲
もうえられるとする。しかしそれ等はお互に礼儀をまもって
全体の美を損ねないようにし、反ってそれ等の美が全体の美
を助け、そしてお互に保護しあい、助けあうことを理想にす
る。
 新しき村には田圃も、畑も、果樹園も、茶畑もあり、鶏も、
豚も、山羊も、家鴨も、鵞鳥もいるが、それ等はお互に居る
べき所にいて、他の美をさまたげない。皆がつがつした感じ
を与えないようにつくりたい。
 全体が一つの庭園であって、そのくせ実用にも背かないも
のでありたい。梅林があり、桃園、梨園があるとする。それ
は庭園の美を損ねないものでありたい。実用と美がここでは
お互に握手出未るだけ握手さしたい。
 それが何処まで出来るかを自分達の仕事の一つにしたい。
こう云うことは西洋の田園都市ではやっているのかも知れな
い。可なり立派にやっている所もあるらしい。しかしそれは
西洋人風に生かしているのである。自分達はそれを新しき村
風に生かしたい。其処に我等の精神をいつかは表現するもの
にしたい。
 今の自分達は資本もなく、力もなく、才能も未熟だから、
中々そううまくはゆかないかも知れない。しかしこの精神で
進みたい。
 そしてかくしても人間は生きられることを示したいのだ。
生活に逐われすぎずに、生活を楽しめるだけ楽しみたいと
思っている。勿論楽しむと云うのはらくをしたいと云うので
はない。身体の筋肉も生かし、活気も生かし、そして生活の
為に戦う以上の勇気と賢さをもって新しき村の住人として恥
かしくない、誇りとなる楽しみを楽しみたいと思うのであ
る。この精神を何処までも何処までも生かしてゆきたいと
思っている。勿論当分は生かせないことは知っているが。
(十四日小林町にて)

(「この道を歩く」角川書店、昭和33年。ただし、ルビを省いた)